2012年7月28日土曜日

わたしいくつ?

『わたしいくつ?』という問いの「わたし」には対象が2つあります。
ひとつは質問者が自分はいくつなのかと問う場合。もうひとつは小さいこどもなんかに向かって問う場合。
そもそも「わたし」という言葉は他ならぬ自分だけをさすはずなのに、他人が「わたし」と言えば自分の「わたし」の事ではないとすぐに分かるのは不思議なことです。わたしたちは他人にも自分と同じような「わたし」がある事や、外から見える自分という架空の視点を認識できてしまうのです。
しかし、小さい頃のように「わたしいくつ?」なんて歳の聞かれ方をしなくなった今でも、自他の「わたし」が区別のつかなくなる場合があります。たとえば歌の歌詞に出てくる「わたし」。フレーズに「わたし」と出てくると、歌の主人公に成りきって歌うでしょう。更にカラオケのように人前で歌うとなるとちょっと演劇にも似てきます。人前で見られているわたしがいるにも関わらず、見せているのは台詞の主人公のわたし。また、小説の主人公の「わたし」の語りも自分と同期しやすい。主人公の声は読んでいる自分に語りかけるのではなく、まるで自分の内なる声のようになぞりながら読むでしょう。歌や小説の「わたし」にわたしが同期すると、後からそれに伴った感情や高揚もついてきます。まるで全部自分のことであったかのように。もちろん自分が理解する事でしかないのでオリジナルと同じ質の経験が出来る訳では決っしてありませんが、どこかの「わたし」の事を自分の経験としてしまう事は可能なのです。そして歌い終えたり、本を閉じた時に他でもないこの自分に戻ってくるのです。
このように他人になる事ができるのは、なることの出来る対象人物がいるからです。しかし対象人物が不在の状況、主体自体を忘れてしまう事もあります。主体という概念からぽーんと抜け出て、視点主の不在、まるで飽和状態になることもあります。例えば宇宙を想像してみて下さい。誰も行った事のない無人島でもいいです。視点主の場所がないにも関わらず、どこでもないところからその眺めを想像する事が出来ます。鳥瞰、俯瞰、神の視点などと言われている状態です。
その視点主の不在、鳥瞰、俯瞰、神の視点を保持したまま、自分の過去の回想シーンを思い出すとどうでしょう。まるで自分の出来事なのに人ごとのように見えてきます。振り返って、ああ全部自分のことだったんだとちょっと驚きます。これはみなさんがぼーっとしている時なんかにも自然にある事でしょう。
どこかの「わたし」に憑依してしまったり、主観が抜けてどこでもないところから眺めていても、わたしたちは必ず他でもない元の自分に戻ってきます。意識が飛んでいってもこの体が命綱のように繋ぎ止めて必ず帰って来れる。しかしその命綱をたぐり寄せて、帰ってきたのは果たして同じものなのか?同じだと分かるのは誰なんでしょう?

小沢裕子

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