2012年7月13日金曜日

流れだす自己(self)-2

 自己の本性として何かが定められると、それによってその周辺の変数は絶え間ない変化としてプロセスする。また、その定められた本性もコンテクストの転換によって、高次の変化をこうむる。
 先の投稿では、こうした流れだす自己の様態について、ベイトソンの軽業師と芸術家を例示しながらみてきた。実際、私の作品「学習的ドリフト」(2012. http://goromurayama.com/works/15/index.html  )ではそのような漸進的な変化そのものを、自己の現われとしてあつかってきたつもりだ。とはいえ、何もかもが流れだしていってしまう(ドリフトする)わけではない。たとえば、行為にかかわる運動の制御には、環境の変化に左右されない認知的機構が含まれているはずだ。



・知覚と行為

メルヴィン・グッデイル/デイヴィット・ミルナー「もうひとつの視覚」(2008)では、脳のなかで視覚情報が処理されるにあたって、知覚と行為とをそれぞれまったく別の異なる視覚経路が担っていることがわかりやすく語られている。
本書によれば、行為の視覚とは、知覚-表象化のプロセスとは異なり、独自の(進化的には古い)脳の背側経路をたどって処理されているという。つまり端的にいえば、知覚と行為において脳内での視覚情報処理は機能的に分化しているということだ。

知覚-表象化は、光景からさまざまな対象を見分ける役割をはたしている。それは豊かで詳細だが、計測値としては不確かであり、錯視がその端的な例であるが、しばしば自ら対象イメージを能動的に構成してしまうところがある。同じ直径の円でも、周囲の相対的な状況によって大きさの感じ方が異なってしまう。
いっぽう、行為の認知は、その性格上まちがいのない情報を手がかりにして環境内で行為を完遂しなければならない。近くても遠くても、主体との相対的な距離にかかわらず、そのコップをそのコップとして固有に認知しなければならない。そのような意味で知覚と行為とは特性が異なる。コップをじっと観察するような知覚のモードと、そのコップに手を伸ばして掴みとるというような行為のモードとでは大きな隔たりがあるのだ。

テーブルにおかれたコップに手を伸ばすとき(リーチング)、既にその行為は実行できており、そのなかには手を開きながら対象を掴みとるまでのあいだに様々な調整がふくまれている。そうした処理過程は通常、意識上に立ちのぼることはない。行為において、そうした暗黙の認知がはたらいている。両眼視差などが対象物までの距離をはかる機構として活用されていることが本書では示されているが(他にも形態や色彩の恒常的認知など)、それらは器質的にとても安定しており、環境に左右されない認知システムだ。行為は、環境から自律して実現されている安定した自己のモードなのである。
ところが、知覚と運動感覚とがカップリングする局面では、別様の流れだす自己が発現することがある。視覚と触覚の協応関係において、それが示されたのがラバーハンド・イリュージョン( Botvinick & Cohen, 1998)である。(次回につづきます。)

ラバーハンド・イリュージョン
http://www.youtube.com/watch?v=TCQbygjG0RU



村山悟郎

0 件のコメント:

コメントを投稿