2012年9月17日月曜日

世界と孤独

世界と孤独 −「私」のあらわれ− は、村山君が身体的レベル、小沢が言語的レベル、この双方で構成されました。一方は相手の身体を見て、自分も同じ部分を緊張させて見る身体的同調。そして一方は言葉が誘導するイメージへの観念的な同調。同調に伴って「私」は皮膚の内側に限らず外側にもあらわれます。

誰かが撮影した映像を集めた『サーフィン』や、見知らぬ古写真を使った『家族写真』は、イメージを関係のないところから主体に繋げようという試みでした。方法としてはテキストに乗せて、視点の位置をどこでもないところから主体へと戻そうとするものでした。ガラスに貼ったシールの映像『スター』は、同じ空間にあるように見えるイメージと主体との間に見えない壁があるというものです。そして、ここでいう「イメージと主体」の関係は、そのまま「世界と孤独」に置き換えることができるように思いました。世界(イメージ)に同調してしまっているときに孤独はありません。何故なら孤独と感じる主体そのものが忘れ去られているからです。しかしその世界(イメージ)から切り離された途端、孤独を感じ得る主体があることに気付くのです。まるでテレビを消した途端、部屋にぽつんと取り残されたときのように。

村山君の性器の写真は、女性である私には身体的同調ができませんでした。しかし感覚がわからないわけではありません。空間的な位置感覚がよくわからない状態なのに存在を強く感じる、しかも高揚して、ということでしょう? 例えるならば、誰にも見られていない状態で、映像を見ているときに私もこれを感じる瞬間があるのです。他者がいなければ、見られる自分がいることを忘れて、ただ映像の中の世界そのものだけになる。画面の中に映る世界以外全て忘れ去られているときです。その状態も上記同様、孤独ではありません。でも孤独ではなかったとわかるのは後から自分に戻ってきてから。孤独になってから「さっきは孤独ではなかった」と思える。世界から切り離されて、事後的にわかることができるのです。だからもし、あの性器の写真の状態のまま暗闇の中だったら、視覚的な身体の境界や位置感覚もなくなって、きっと世界そのものになるの感じなのでしょう。というわけで村山君の写真は、他者の身体を見て、身体的同調ではなく観念的同調をするという中間的な新境地なのでした。これが正しい解釈であるかは定かではありません。でも解釈にズレが生じたならば、それはそれで面白いことだと思います。

あと触れていなかった自作に関しても少し。
『ファンレター』は手紙の原本を私が書いて、他者の筆跡で写し取ってもらったものです。原本が台本であるならば、写しはいわゆる筆跡役者です。だから協力してくれた彼らをhandwriting actorと名付けました。handwriting actorたちに演じられることによって私は外へ流れ出てゆきます。
『キャッチ&リリース』は、まず一致しているはずの字幕と声が分離していき、やがて互いに会話を始める。最後に字幕と声は再び一致するのですが、別の声が戻ってきてしまうという構造。今までの作品では外国語音声に日本語の字幕を付けていたので、日本語音声に日本語の異なった字幕を付けたらどう認識するのだろうかという試みでもありました。

ということで、本日会期終了いたしました!
『世界と孤独』企画の袴田京太朗さん、今回付き合ってくれた村山悟郎くん、大変お世話になりました、わくわくするような期間でした。ありがとうございました。
そして、展示見に来て下さった方、ブログを読んでくださったあなたにも深く感謝いたします。

2012年8月14日火曜日

流れだす自己(self)-3


・ラバーハンド・イリュージョン

 ラバーハンド・イリュージョン Botvinick & Cohen, 1998)は、きわめて簡潔な方法で体性感覚とよばれる自己の身体にたいする定位感に変容をもたらす。ゴム製の手の模型が、己の手のように感じられてしまうばかりか、ゴム製の手から触感覚を感じるにまで至る奇妙な体感である。
(ラバーハンド・イリュージョン: http://www.youtube.com/watch?v=TCQbygjG0RU

 被験者は、イスに腰掛け、テーブルの上に自身の手を置く。テーブルの上にはパーテーションが設けられていて、自身の手は自分から見えない位置に隠され、自分から見える位置にはゴム製の手が置かれる。その状態が実験の基本的なセットである。実験者は、被験者の手とゴム製の手とに、それぞれタイミングを同期させて同様の刺激を継続して与える。その間、被験者はゴム製の手が刺激を受ける様子だけを見つづけるよう求められる。そうしてしばらくすると、ゴム製の手が自らの手のようにありありと感じられるようになってくる。果てには、ゴム製の手のみに刺激を与える様子を見せるだけで、そこから触感覚が生じるようにまでなる。

 視覚と触覚が協応(マルチモーダル)して、一つの「私」という現象が生じる。そこにどのようなメカニズムが働いているのかを考えるとき、このラバーハンド・イリュージョンはとても示唆的である。視覚情報は体性感覚より優位であると考えられ、能動的なまなざしが「私」という現象を率先して構成する。それは容易に、自らの肉体から流れだす自己である。身体の唯一性がゆらいで、いま現にある肉体が別のBODYに流転するような想像力を掻き立てられる。
 ロボット研究者の國吉康夫はこのラバーハンド・イリュージョンについて、「近づいてきて……(視覚)、感じる(触知)。」というように、視覚(vision)と触覚(tactile)のマルチモーダル間の時間構造が要点だとみているようだ。そうした時間構造さえ再現されれば、別の身体に自己同定することもおこりうる、ということである。


 ・自動車運転と鏡像

 筆者も、日常生活のなかでこの現象に類似した経験がある。自動車を運転しているときにそれは起こった。自動車がまるで自分の身体のように感じられたのである。
 私が運転している自動車は、ツーリングワゴンのタイプで、近年は少なくなったいわゆるマニュアルトランスミッション、つまり変速機を手動で操作する。そのため、運転では四肢がそれぞれ異なる役割を担うことになる。右手はハンドル、左手はシフトレバー、右足はブレーキ・アクセル、そして左足はクラッチペダル、といった具合にやや複雑だ。それに加えて、移動にともなうオプティカルフロー(光学的流動)の知覚と身体にかかるG(加速度)、それらが協応して、自動車運転という運動感覚を形成している。この車を運転してもうかれこれ6〜7年になる頃の話だ。

 街を走っているとき、交差点の赤信号で停まった。信号の側方には全面ガラス張りのコンビニエンスストアがあり、なんの気なしに店の方に目をやりながら、その前を横切りつつ減速し停車した。ポイントは、その一連の車の動きが店のガラスに映りこんでいたことにある。
 車を運転するという行為において、通常その視点のあり方は内在的である。自分が運転している姿をあらためて見るということは、まず無い。鏡の前に立ちイメージトレーニングをする、というような視点が外部に開け放たれた運動ではないのだ。ところがその時は、そうした視点が不意に反転したのである。
 そのガラスを見た瞬間、運転操作と減速でかかるGによって身体に立ち現われる移動感と、ガラスに映っている自分の車の運動イメージとが協応して、その車が「私」になった。ほんの一瞬だが、鏡に映りこんでいる車のイメージや車中のインテリア(内皮)に体性感覚が憑依したようだった(またたく間にその状態は解け、ふたたび自らの肉体に自己は凝集したけれども)。
 この経験でも、鏡に映る身体イメージとそれに伴う体性感覚とのマルチモーダル間の時間構造が、流れだす自己(self)を現象させていると考えられる。たとえば鏡の前で歩くときは、歩調や風あたり、光景の変化と鏡像の運動イメージは一定の変化率で同調する。運動イメージだけが少し遅延するということはありえそうもない。人間はこの同調の変化率を、(まさしくラカンのいう鏡像段階から)発達とともに少しずつ獲得してきているのではあるまいか。その変化率こそが鏡像を前に運動する自己を同定するものであり、車の鏡像イメージと運転という運動感覚にアナロジカルに転化したのではないか、ということである。

 生身の肉体でさえ、そこから自己(self)は流れだしていってしまう。視覚情報が、体性感覚をつくりかえてしまうことがあるからだ。しかしながら、触覚にも「私」の不変さ(invariant)を獲得するようなモードがあるように感じられる。流れだす自己(self)をその身で感じながら、いっぽうで、私は私であるというような感取も同時に持っている。それはいったい何によっているのだろうか?

村山悟郎

2012年7月28日土曜日

わたしいくつ?

『わたしいくつ?』という問いの「わたし」には対象が2つあります。
ひとつは質問者が自分はいくつなのかと問う場合。もうひとつは小さいこどもなんかに向かって問う場合。
そもそも「わたし」という言葉は他ならぬ自分だけをさすはずなのに、他人が「わたし」と言えば自分の「わたし」の事ではないとすぐに分かるのは不思議なことです。わたしたちは他人にも自分と同じような「わたし」がある事や、外から見える自分という架空の視点を認識できてしまうのです。
しかし、小さい頃のように「わたしいくつ?」なんて歳の聞かれ方をしなくなった今でも、自他の「わたし」が区別のつかなくなる場合があります。たとえば歌の歌詞に出てくる「わたし」。フレーズに「わたし」と出てくると、歌の主人公に成りきって歌うでしょう。更にカラオケのように人前で歌うとなるとちょっと演劇にも似てきます。人前で見られているわたしがいるにも関わらず、見せているのは台詞の主人公のわたし。また、小説の主人公の「わたし」の語りも自分と同期しやすい。主人公の声は読んでいる自分に語りかけるのではなく、まるで自分の内なる声のようになぞりながら読むでしょう。歌や小説の「わたし」にわたしが同期すると、後からそれに伴った感情や高揚もついてきます。まるで全部自分のことであったかのように。もちろん自分が理解する事でしかないのでオリジナルと同じ質の経験が出来る訳では決っしてありませんが、どこかの「わたし」の事を自分の経験としてしまう事は可能なのです。そして歌い終えたり、本を閉じた時に他でもないこの自分に戻ってくるのです。
このように他人になる事ができるのは、なることの出来る対象人物がいるからです。しかし対象人物が不在の状況、主体自体を忘れてしまう事もあります。主体という概念からぽーんと抜け出て、視点主の不在、まるで飽和状態になることもあります。例えば宇宙を想像してみて下さい。誰も行った事のない無人島でもいいです。視点主の場所がないにも関わらず、どこでもないところからその眺めを想像する事が出来ます。鳥瞰、俯瞰、神の視点などと言われている状態です。
その視点主の不在、鳥瞰、俯瞰、神の視点を保持したまま、自分の過去の回想シーンを思い出すとどうでしょう。まるで自分の出来事なのに人ごとのように見えてきます。振り返って、ああ全部自分のことだったんだとちょっと驚きます。これはみなさんがぼーっとしている時なんかにも自然にある事でしょう。
どこかの「わたし」に憑依してしまったり、主観が抜けてどこでもないところから眺めていても、わたしたちは必ず他でもない元の自分に戻ってきます。意識が飛んでいってもこの体が命綱のように繋ぎ止めて必ず帰って来れる。しかしその命綱をたぐり寄せて、帰ってきたのは果たして同じものなのか?同じだと分かるのは誰なんでしょう?

小沢裕子

2012年7月13日金曜日

流れだす自己(self)-2

 自己の本性として何かが定められると、それによってその周辺の変数は絶え間ない変化としてプロセスする。また、その定められた本性もコンテクストの転換によって、高次の変化をこうむる。
 先の投稿では、こうした流れだす自己の様態について、ベイトソンの軽業師と芸術家を例示しながらみてきた。実際、私の作品「学習的ドリフト」(2012. http://goromurayama.com/works/15/index.html  )ではそのような漸進的な変化そのものを、自己の現われとしてあつかってきたつもりだ。とはいえ、何もかもが流れだしていってしまう(ドリフトする)わけではない。たとえば、行為にかかわる運動の制御には、環境の変化に左右されない認知的機構が含まれているはずだ。



・知覚と行為

メルヴィン・グッデイル/デイヴィット・ミルナー「もうひとつの視覚」(2008)では、脳のなかで視覚情報が処理されるにあたって、知覚と行為とをそれぞれまったく別の異なる視覚経路が担っていることがわかりやすく語られている。
本書によれば、行為の視覚とは、知覚-表象化のプロセスとは異なり、独自の(進化的には古い)脳の背側経路をたどって処理されているという。つまり端的にいえば、知覚と行為において脳内での視覚情報処理は機能的に分化しているということだ。

知覚-表象化は、光景からさまざまな対象を見分ける役割をはたしている。それは豊かで詳細だが、計測値としては不確かであり、錯視がその端的な例であるが、しばしば自ら対象イメージを能動的に構成してしまうところがある。同じ直径の円でも、周囲の相対的な状況によって大きさの感じ方が異なってしまう。
いっぽう、行為の認知は、その性格上まちがいのない情報を手がかりにして環境内で行為を完遂しなければならない。近くても遠くても、主体との相対的な距離にかかわらず、そのコップをそのコップとして固有に認知しなければならない。そのような意味で知覚と行為とは特性が異なる。コップをじっと観察するような知覚のモードと、そのコップに手を伸ばして掴みとるというような行為のモードとでは大きな隔たりがあるのだ。

テーブルにおかれたコップに手を伸ばすとき(リーチング)、既にその行為は実行できており、そのなかには手を開きながら対象を掴みとるまでのあいだに様々な調整がふくまれている。そうした処理過程は通常、意識上に立ちのぼることはない。行為において、そうした暗黙の認知がはたらいている。両眼視差などが対象物までの距離をはかる機構として活用されていることが本書では示されているが(他にも形態や色彩の恒常的認知など)、それらは器質的にとても安定しており、環境に左右されない認知システムだ。行為は、環境から自律して実現されている安定した自己のモードなのである。
ところが、知覚と運動感覚とがカップリングする局面では、別様の流れだす自己が発現することがある。視覚と触覚の協応関係において、それが示されたのがラバーハンド・イリュージョン( Botvinick & Cohen, 1998)である。(次回につづきます。)

ラバーハンド・イリュージョン
http://www.youtube.com/watch?v=TCQbygjG0RU



村山悟郎

2012年6月27日水曜日

公開でつぶやく



夜空を長い長い目で見ていると、幾重にも重なる円の中心に点が見える。それは北極星。北極星はほとんど動かないので、自分のいる場所を理解する為の目印になります。それは地球も北極星に対してほとんど動かない星だからです。
それでは、もし地球がふらついていたらどうでしょう。見える星はどれもランダムに動いてしまい、なかなか定まりません。暗闇の中、地球は自分がどこにいるのかわからなくなります。どうしたものでしょう。みずから恒星になって、まわりの星からの反射具合で自分のいる場所を測っていけばいいでしょうか。そのときは目の前にいる星が頼りになるでしょう。しかし、見覚えある星のはずが何度現れても毎回距離が異なるため、その都度自分との距離を測り直さなくてはなりません。まあ、みずから放った光が毎回思わぬ形で帰ってくるので、いつも違う反射を見るのは楽しいでしょう。でも揺れ定まってしまえば楽になるのに。そのうえ他の星々からは全く頼りにされません。
いっそ何でもいいから、ひとつばっさりと北極星を決めてしまおうか。遠く流れていかないように、決めかかったそいつを目印に自分を固定させるのです。そうすればどこから何が現れてもだいたいの判断はつけやすい。
しかし自分で決めた北極星は信用ならないんです。決めるならば確信を持って決めにかかりたいんです。
というか、やっぱり決めなくてもいいんじゃないかしら。ふらついた自分の軸あとにも、おのずと法則のようなものが見えてくるのじゃないかしら。という事で、軸あとを眺め返す作業が始まっているのです。いかんせんふらついてしまっているもので、眺め返す地点によって軸あとの見え方もいつも同じとは限らない。その都度過去の見え方すら更新され、作り直されているのです。

このように文章を書くということには、ある程度自身を固定させる力が宿ります。ましてや公開している文章なので、私という人物に一貫性を持たせようという意識もはたらいています。みずからのコンテクストを作っていくという事は、みずからのフィクションを作っていく事です。いくつものフィクションが折り重なって、おのずと癖のようなものが見えてくれば、それが私の「本当」になるのではないかしら。


小沢裕子

2012年6月10日日曜日

流れだす自己(self)-1

「私」とは、環境との相互関係によってたえず変化にさらされ、流れだしていってしまう。10年前の自分には想像もつかなかった「私」に、いまなっている。しかしいっぽうで、流れだす「私」を感じとりながら、同時に「私」の不変さ(invariant)も感じとっているようだ。これを、いわゆるシステムの恒常的(ホメオスタティック)な特性とはべつに、触覚のclosedな環状感知として考えてみたい。これが本展にかかわる私の問題意識だ。そこで、まずベイトソンが例示する軽業師、つぎにラバーハンド・イリュージョンをとりあげながら、「流れだす自己」を素描してゆきたい。

・軽業師と芸術家

「私」とは、幾重にも織りなされたサークルだ。「私」とはめぐりめぐる再帰・循環的なシステムであり、それは複雑に相互連合してホメオスタティックな特性をそなえた多くの回路/命題によってなされている。それぞれの回路/命題は一定の柔軟性をもった変数をうごかしながら、全体としてそのシステムの正しさ(ex. 生存)を維持してゆく。ベイトソンは、その様子を綱渡りする軽業師になぞらえた。

健康なシステムは、高く張られたロープの上で、巧みにバランスを取る軽業師にたとえられるかもしれない。軽業師は一つの不安定な状態から次の不安定な状態へ動き続けながら、一番基本的な命題-「私は綱の上に立っている」-が真でありつづけるよう図る。すなわち腕の位置や腕の動きの速度等の諸変数に非常に大きな柔軟性を持たせて、それらの変化によって根本的で一般的な特性の安定を図るのでなくてはならない。腕が固定あるいはマヒして(すなわちコミュニケーション回路から遮断されて)いたならば、落下は必然である。 
ベイトソン「精神の生態学」(1972) p716

ここで軽業師をシステミックにとらえると、「私は綱の上に立っている」という基本的な命題はシステムのバイアス(規定値)になっている。これが恒常的なシステムにおける自己(self)であり、それが維持されるために、各変数の柔軟性が食われてゆくのである。軽業師が綱渡りをするとき、もしかしたら風がふいたりするかもしれないが、その環境は比較的一定の範囲内におさまっているようにみえる。少なくとも「綱渡り」という観念自体がかわってしまうということはないだろう。しかしながら、芸術家の場合はそうはいかないのだ。
ある芸術家のバイアスが「美」である場合、とても流動的な「私」がドリフトすることになるだろう。ここでは普遍的な美について論じることはできないが、まず、すくなくとも社会環境や文化的背景のなかで美のトレンドは変動してゆく。もしそれら美のトレンドに適応的であろうとすれば、とうぜん「美」は流動状態をこうむるわけだ。
また、芸術家自体の内情もそれ自身として変化する。時間T1で、ある美しい状態があるとしよう。それが(T2, 3, 4,,,)と反復されるとすれば、その美しい状態はモノトニーな状態へと変転するかもしれない。逆に、T1において単体としてはノーマルで凡庸なものが、(T2, 3, 4,,,)と反復されることによって「実直さ」という美徳を獲得するばあいも考えられる。これは美的探求のプロセスについての美であり、その対象が本来のロジカルタイプ(論理階型)から一段のぼっているのだ。このようにして「美」にたいする芸術家の性格構造の変化すらもおこりうる。
大まかに見ても、このようにして10年後には、芸術家の「美」は想像もつかない地点にむかっていく。 「美を探求する」という芸術家の自己(self)も、環境の変化やバイアス自体の観念が変転してゆくことによって流れだしていってしまう、とみることができるだろう。
(次回につづきます)

村山悟郎

2012年5月22日火曜日

展覧会に向けて

小沢裕子です。
どうぞよろしくお願い致します。

村山君が展覧会の経緯を紹介してくれたので、続けて、私が考えている事も書いていこうと思います。

まず最初に2011年5月。「世界と孤独」に寄せるステイトメントをメールでいただいて、すぐに袴田さんを近所の喫茶店に呼び出してしまったのを覚えています。震災直後、特別な反応を示せなかった私はきまりの悪さを抱えていたのですが、のどに詰まっていた不明なものが、のどにひっかかったままではあるけれど判明した様な気分になったからです。私は他人がどう思うのか気になって仕方なかったのだと思います。3.11をめぐる具体的な思いはここでは書きませんが、他者の「反応」に対する私の「二次的な反応」へ向かう意識は強まったのではないかと今になって思います。
そして今回。村山君と共有できる問題項、それは「私」へのアプローチです。私はこれまで、「自己の意識の往来」というような事を考えて制作してきました。いわゆる一人きりの作業です。そして今回は二人のコラボレーションも予定していて、わくわくしています。なぜなら、他者がダイレクトに入ってくるというか、他者を意識せざるおえない状況になるからです。今までは一般的な他者(そんなものは存在しないのだけど)として考えていた部分が、今回は限定した一人の他者として介入してきます。きっと同じものを見ていてもそれぞれの解釈は全く異なっていたりする。もしくは本当は同じ解釈をしているにも関わらず、使う言葉が違う為に同じ解釈だと思えないのかもしれない。しかしそもそも私たちは言葉で思考するのだから、やはり言葉が違えば解釈は同じだと言えないのかもしれない… なんて、同じ物事を考える時に出てきてしまう二人の距離について必然的に考えてしまいます。そもそも私は自分の立っている場所すら定まっていないので、他者との距離もうまく測れないのですが、「村山君はそこに立つの?じゃあ私はここらへんかな?」なんて相対的な「私」が登場してくるのかなあ、なんて思っています。

それでは改めまして私からも、
展覧会開催までどうぞお付き合いよろしくお願い致します。

小沢裕子