2012年6月27日水曜日

公開でつぶやく



夜空を長い長い目で見ていると、幾重にも重なる円の中心に点が見える。それは北極星。北極星はほとんど動かないので、自分のいる場所を理解する為の目印になります。それは地球も北極星に対してほとんど動かない星だからです。
それでは、もし地球がふらついていたらどうでしょう。見える星はどれもランダムに動いてしまい、なかなか定まりません。暗闇の中、地球は自分がどこにいるのかわからなくなります。どうしたものでしょう。みずから恒星になって、まわりの星からの反射具合で自分のいる場所を測っていけばいいでしょうか。そのときは目の前にいる星が頼りになるでしょう。しかし、見覚えある星のはずが何度現れても毎回距離が異なるため、その都度自分との距離を測り直さなくてはなりません。まあ、みずから放った光が毎回思わぬ形で帰ってくるので、いつも違う反射を見るのは楽しいでしょう。でも揺れ定まってしまえば楽になるのに。そのうえ他の星々からは全く頼りにされません。
いっそ何でもいいから、ひとつばっさりと北極星を決めてしまおうか。遠く流れていかないように、決めかかったそいつを目印に自分を固定させるのです。そうすればどこから何が現れてもだいたいの判断はつけやすい。
しかし自分で決めた北極星は信用ならないんです。決めるならば確信を持って決めにかかりたいんです。
というか、やっぱり決めなくてもいいんじゃないかしら。ふらついた自分の軸あとにも、おのずと法則のようなものが見えてくるのじゃないかしら。という事で、軸あとを眺め返す作業が始まっているのです。いかんせんふらついてしまっているもので、眺め返す地点によって軸あとの見え方もいつも同じとは限らない。その都度過去の見え方すら更新され、作り直されているのです。

このように文章を書くということには、ある程度自身を固定させる力が宿ります。ましてや公開している文章なので、私という人物に一貫性を持たせようという意識もはたらいています。みずからのコンテクストを作っていくという事は、みずからのフィクションを作っていく事です。いくつものフィクションが折り重なって、おのずと癖のようなものが見えてくれば、それが私の「本当」になるのではないかしら。


小沢裕子

2012年6月10日日曜日

流れだす自己(self)-1

「私」とは、環境との相互関係によってたえず変化にさらされ、流れだしていってしまう。10年前の自分には想像もつかなかった「私」に、いまなっている。しかしいっぽうで、流れだす「私」を感じとりながら、同時に「私」の不変さ(invariant)も感じとっているようだ。これを、いわゆるシステムの恒常的(ホメオスタティック)な特性とはべつに、触覚のclosedな環状感知として考えてみたい。これが本展にかかわる私の問題意識だ。そこで、まずベイトソンが例示する軽業師、つぎにラバーハンド・イリュージョンをとりあげながら、「流れだす自己」を素描してゆきたい。

・軽業師と芸術家

「私」とは、幾重にも織りなされたサークルだ。「私」とはめぐりめぐる再帰・循環的なシステムであり、それは複雑に相互連合してホメオスタティックな特性をそなえた多くの回路/命題によってなされている。それぞれの回路/命題は一定の柔軟性をもった変数をうごかしながら、全体としてそのシステムの正しさ(ex. 生存)を維持してゆく。ベイトソンは、その様子を綱渡りする軽業師になぞらえた。

健康なシステムは、高く張られたロープの上で、巧みにバランスを取る軽業師にたとえられるかもしれない。軽業師は一つの不安定な状態から次の不安定な状態へ動き続けながら、一番基本的な命題-「私は綱の上に立っている」-が真でありつづけるよう図る。すなわち腕の位置や腕の動きの速度等の諸変数に非常に大きな柔軟性を持たせて、それらの変化によって根本的で一般的な特性の安定を図るのでなくてはならない。腕が固定あるいはマヒして(すなわちコミュニケーション回路から遮断されて)いたならば、落下は必然である。 
ベイトソン「精神の生態学」(1972) p716

ここで軽業師をシステミックにとらえると、「私は綱の上に立っている」という基本的な命題はシステムのバイアス(規定値)になっている。これが恒常的なシステムにおける自己(self)であり、それが維持されるために、各変数の柔軟性が食われてゆくのである。軽業師が綱渡りをするとき、もしかしたら風がふいたりするかもしれないが、その環境は比較的一定の範囲内におさまっているようにみえる。少なくとも「綱渡り」という観念自体がかわってしまうということはないだろう。しかしながら、芸術家の場合はそうはいかないのだ。
ある芸術家のバイアスが「美」である場合、とても流動的な「私」がドリフトすることになるだろう。ここでは普遍的な美について論じることはできないが、まず、すくなくとも社会環境や文化的背景のなかで美のトレンドは変動してゆく。もしそれら美のトレンドに適応的であろうとすれば、とうぜん「美」は流動状態をこうむるわけだ。
また、芸術家自体の内情もそれ自身として変化する。時間T1で、ある美しい状態があるとしよう。それが(T2, 3, 4,,,)と反復されるとすれば、その美しい状態はモノトニーな状態へと変転するかもしれない。逆に、T1において単体としてはノーマルで凡庸なものが、(T2, 3, 4,,,)と反復されることによって「実直さ」という美徳を獲得するばあいも考えられる。これは美的探求のプロセスについての美であり、その対象が本来のロジカルタイプ(論理階型)から一段のぼっているのだ。このようにして「美」にたいする芸術家の性格構造の変化すらもおこりうる。
大まかに見ても、このようにして10年後には、芸術家の「美」は想像もつかない地点にむかっていく。 「美を探求する」という芸術家の自己(self)も、環境の変化やバイアス自体の観念が変転してゆくことによって流れだしていってしまう、とみることができるだろう。
(次回につづきます)

村山悟郎