2012年6月10日日曜日

流れだす自己(self)-1

「私」とは、環境との相互関係によってたえず変化にさらされ、流れだしていってしまう。10年前の自分には想像もつかなかった「私」に、いまなっている。しかしいっぽうで、流れだす「私」を感じとりながら、同時に「私」の不変さ(invariant)も感じとっているようだ。これを、いわゆるシステムの恒常的(ホメオスタティック)な特性とはべつに、触覚のclosedな環状感知として考えてみたい。これが本展にかかわる私の問題意識だ。そこで、まずベイトソンが例示する軽業師、つぎにラバーハンド・イリュージョンをとりあげながら、「流れだす自己」を素描してゆきたい。

・軽業師と芸術家

「私」とは、幾重にも織りなされたサークルだ。「私」とはめぐりめぐる再帰・循環的なシステムであり、それは複雑に相互連合してホメオスタティックな特性をそなえた多くの回路/命題によってなされている。それぞれの回路/命題は一定の柔軟性をもった変数をうごかしながら、全体としてそのシステムの正しさ(ex. 生存)を維持してゆく。ベイトソンは、その様子を綱渡りする軽業師になぞらえた。

健康なシステムは、高く張られたロープの上で、巧みにバランスを取る軽業師にたとえられるかもしれない。軽業師は一つの不安定な状態から次の不安定な状態へ動き続けながら、一番基本的な命題-「私は綱の上に立っている」-が真でありつづけるよう図る。すなわち腕の位置や腕の動きの速度等の諸変数に非常に大きな柔軟性を持たせて、それらの変化によって根本的で一般的な特性の安定を図るのでなくてはならない。腕が固定あるいはマヒして(すなわちコミュニケーション回路から遮断されて)いたならば、落下は必然である。 
ベイトソン「精神の生態学」(1972) p716

ここで軽業師をシステミックにとらえると、「私は綱の上に立っている」という基本的な命題はシステムのバイアス(規定値)になっている。これが恒常的なシステムにおける自己(self)であり、それが維持されるために、各変数の柔軟性が食われてゆくのである。軽業師が綱渡りをするとき、もしかしたら風がふいたりするかもしれないが、その環境は比較的一定の範囲内におさまっているようにみえる。少なくとも「綱渡り」という観念自体がかわってしまうということはないだろう。しかしながら、芸術家の場合はそうはいかないのだ。
ある芸術家のバイアスが「美」である場合、とても流動的な「私」がドリフトすることになるだろう。ここでは普遍的な美について論じることはできないが、まず、すくなくとも社会環境や文化的背景のなかで美のトレンドは変動してゆく。もしそれら美のトレンドに適応的であろうとすれば、とうぜん「美」は流動状態をこうむるわけだ。
また、芸術家自体の内情もそれ自身として変化する。時間T1で、ある美しい状態があるとしよう。それが(T2, 3, 4,,,)と反復されるとすれば、その美しい状態はモノトニーな状態へと変転するかもしれない。逆に、T1において単体としてはノーマルで凡庸なものが、(T2, 3, 4,,,)と反復されることによって「実直さ」という美徳を獲得するばあいも考えられる。これは美的探求のプロセスについての美であり、その対象が本来のロジカルタイプ(論理階型)から一段のぼっているのだ。このようにして「美」にたいする芸術家の性格構造の変化すらもおこりうる。
大まかに見ても、このようにして10年後には、芸術家の「美」は想像もつかない地点にむかっていく。 「美を探求する」という芸術家の自己(self)も、環境の変化やバイアス自体の観念が変転してゆくことによって流れだしていってしまう、とみることができるだろう。
(次回につづきます)

村山悟郎

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